剱岳 別山より |
MRC60周年記念登山 |
剱 岳 (前 編) 一服剱 標高2618m 前 剱 標高2813m 剱 岳 標高2999m(三角点2997.1m) |
MRC主催の立山剱岳登山に参加した。第2日目は待望の剱岳登頂と三角点の探訪だ。 [プロローグ] 新田次郎著の「剱岳 点の記」が2009年に映画化されることが発表され剱岳が脚光を浴びている。国土地理部門が日露戦争が始まりに内務省管轄から陸軍の管轄に変わった。陸軍の管轄になり機密が厳しくなる傍ら、命令で何でもやらされる環境になってきた。国内の地形測量はほぼ完了し、剱岳周辺の三等三角測量のみが残されていた。剱岳は立山信仰が始まって、立山曼荼羅では地獄絵の山で登れない山、登ってはならない山とされてきた。この時期になって裕福な若者が山岳会を作って剱岳に初登頂を試みる話題が出てきた。軍はこれに負けては面子に関わるとし、地理測量の三角科に剱岳周辺の三等三角測量を命じたのだ。軍の本音は登頂することのみにあったが、三角科の柴崎芳太郎はじめ命令を忠実に守ったのである。前年の下見では早月尾根、別山尾根などのコースを試みたが難しいとしか言いようがなかった。実行の年、三角測量の選点から始まった。剱岳を取り巻くピークに道なき道を登り選点をしていった。その苦労話が紹介されているが実に難行苦行であった様子がよくわかる。最後に剱岳が残されたが早月尾根、別山尾根と試みるが登頂できそうにない。玉殿岩屋の仙人から「雪を背負って登り、雪を背負って帰れ」と言う呪文のような言葉を耳にするのである。最終的には剱沢から剱岳山頂に延びる大雪渓を登ることになる。山頂直下の登りは案内人長次郎が裸足で岩をよじ登り登頂する。明治40年(1907)7月のことであった。しかしすでに奈良時代と思われる錫杖と鉄剱が山頂にありたき火の跡があった。弘法大師がわらじ三千足を費やしても登れなかったとされるが、すでに修験者によって登られていたのだ。この報告を聞いた軍部は剱岳に関して全く興味を示さずうやむやになっていたのだそうだ。この谷は後に柴崎と共にした山案内人、宇治長次郎の名前をとり長次郎谷という名が付いたと思われる。柴崎らは三等三角測量を終え三等三角点を埋設することになった。ただ断念な事に三等三角点標石が剱岳に持ち上げられなく四等三角点になってしまった。四等三角点は仮のものでその後、記録もなく忘れ去られてしまったのだそうだ。 この伝説のようになった剱岳の三等三角点が測量から100年後、2004年(平成16年)に埋設された。標高は2998mと算出されていたが、その後の測量で3003mの時期もあったということだ。三等三角点が設置され剱岳の三角点は標高2997.07mが計測され、剱岳の最高点は2999mになった。この最高点は祠の西側の岩上がで三角点より1.5m高いということだ。 2004年に三等三角点が埋設される以前の2000年に登頂したが今回この三角点の探訪が待ち遠しい。 |
[登頂の記録 前編] 8月26日早朝4時前に起床、弁当朝食をとり剣山荘を4時30分に出発。ヘッドランプで足下を照らしながら歩み始める。歩き始めてすぐ鎖場の道になり、いきなり厳しさが迫ってくるようだ。五竜岳、鹿島槍ヶ岳の稜線が赤く染まり実に美しい。一服剱標高2618mに着く、もうすぐ夜明だ。正面に前剱、剱岳が振り返ると別山、剱御前そして剣沢がモノクロトーンで美しいく神秘的だ。一服剱でヘッドランプを外し、防寒具も不要になり、身軽になった。一服剱を越えて前剱に向けて登り始める。しばらく登ると赤い太陽の光が照らし出されてきた。前剱も岩肌の厳しさとハイマツの濃い緑が安堵を美しく調和している。振り返ると小振りの一服剱が赤い太陽に照らされ赤く焼けていた。しばらくの間だったが印象的だった。比較的緩やかな尾根筋を行く。やがて登りが急になり頭上に大きな岩が見えてきた。こんな大岩が落ちてきたらと思いながら大岩横の急勾配を登る。道は岩を攀じ登ったり巻いたり三点支持が必須になってきた。そんな岩道を越え前剱の到着した。前剱は標高2813m、前方に厳つい剱岳が迫ってきた。数分進むと立ち止まって後ろ向きになって消えていく。6時8分前剱の門手前の難所だ。ここから剱岳の険しさの本域に入ってきたようだ。高所恐怖症の人はここから恐怖が始まるのだろう。慎重に数十メートル下るとキレットになっている。幅30センチ長さ2メートルほどのアルミ橋が掛かっている。思わず足がすくむが一気にわたる。カニノヨコバイに似た岩壁を鎖につかまりながら20メーターほど右斜め上に慎重にトラバースする。その後垂直に近い岩場で足元に登山者が小さく見える。数十メートル鎖につかまり鞍部まで降りる。この鞍部が前剱の門と言われるところらしい。剱岳が益々近づいてきた。約30分平蔵ノ頭辺りまで稜線の右側の安定した道を登る。平蔵ノ頭直前で渋滞になりゆっっくりする。鎖やピンを使って登りきると畳千畳敷きと思われぐらいの大岩を鎖で降りる。岩壁をトラバースしながら先へ進むと平蔵ノコルに到着だ。いよいよここから正念場のカニノタテバイだ。振り返ると先程降りてきた大岩が扇子を開いたような壁になり多くの登山者が蝉のようにつかまっている。しばらくカニノタテバイの取付に着いた。昨日事故があり滑落してヘリで搬送されたと言われていたが、取付は事故の血が飛び散り緊張が走った。垂直の壁は2000年のときに比べてピンの数が大幅に増えていて登りやすくなっていたように思った。渋滞もあって約10分で通過、後は岩場をひたすら山頂目指して登る。登山者が鈴なりの剱岳に無事登頂、剣山荘を出発して3時間20分、渋滞もあったがほぼ予定通りだ。弘法大師がわらじ三千足を費やしても登れなかった剱岳に短時間で登れた。点の記で明治40年に大雪渓から最後の岩場を素足で登った柴崎、宇野氏の頃とは雲泥の違いだ。登りきったところが祠で身動きできないくらいだ。リュックを下ろして三角点を探したがなかなか見つからない。祠から東に十数メートルのところの人垣の中にあった。100年前の無念がやっと実現した三角点だ。30分弱山頂で景色を楽しんだ。参加メンバーは登頂できてみんな誇らしげだった。恐怖感を取り除くため道場の百丈岩での特訓や鷲峰山の特訓と努力が活かされたのだろう。8時15分下山開始。下りの難所はカニノヨコバイだ。(後編に続く) |
立山縦走に戻る 剱岳登山後編に続く |
コース 8月26日(日) 剣山荘(4:30)〜一服剱(5:00/5:05)〜大岩(5:35)〜前剱(5:55/6:05)〜平蔵ノ頭〜 平蔵ノコル(7:05)〜カニノタテバイ(7:07)〜タテバイ通過(7:25)〜剱岳(7:50/8:15)〜 カニノヨコバイ(8:40)〜平蔵ノコル(8:55)〜平蔵ノ頭〜前剱(9:43)〜一服剱(10:27)〜 剣山荘(11:00/昼食/11:50)〜別山乗越(13:27)〜雷鳥平(14:50)〜地獄谷〜 みくりが池温泉(15:50) (泊) 地 図 剱岳 立山 天 候 快晴 参加者 17名 実施日 2007.08.26 |