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4月20日、MRC主催のまほろば例会に参加した。壺阪山駅に9時30分集合、土佐街道の家並みを楽しみながら歩いた。 土佐町は、街道の説明版によると、6世紀はじめ大和朝廷の都造りの労役で、土佐の国を離れこの地に召しだされた。任務を終えても帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けれれた。近世に入り、植村氏が高取城に入り城下町として政治経済産業の中心となった町筋ができたという。 砂防公園、標高200mから先は山道で高取城址、標高584mへと続いていて、標高差384m登る。砂防公園から15分ほどで宗泉寺、ここから地道の登りになる。七曲り、一升坂など急坂を登ると、猿石に出会う。 猿石は、飛鳥時代のものだそうで、高取城築城時に石垣の石として運ばれここに放置されたものという。飛鳥の猿石と同じよなものだろう。 |
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壺阪山駅前にて |
土佐街道を行く |
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高取町道路元標 |
土佐街道を行く |
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夢想館にて |
上子島元気ひろば |
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登山道を登る |
登山道を登る |
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登山道を登る |
猿石 |
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二ノ門跡を過ぎると、国見櫓跡が右120mのところにある。さすが国見櫓と呼ばれるだけあって、大和の国さらに大阪、六甲山を一望できる。 |
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奈良平野 国見櫓跡より |
奈良平野 国見櫓跡より |
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奈良平野を囲む葛城山・二上山・信貴生駒連山 国見櫓跡より |
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矢場門跡、松ノ門、宇陀門跡 千早門跡そして大手門へと登る。ここから十三多聞門を入ると二ノ丸跡は広く、その先の十五多聞門を過ぎると石垣が高く、そして石垣が複雑になり本丸に着く。本丸の隅には天守台がある。天守は二つあったようだが気がつかなかった。 天守台は、実質高取山の山頂で三等三角点になっていて、標高584mだ。本丸から吉野方面の展望が開けていて、今盛りの吉野山の桜が見えていた。 高取城址は、南北朝時代に豪族の越智氏が築いた。本多氏が豊臣秀長の命により、大修築。その後譜代大名の植村氏が居城となり、幕末まで続いたそうだ。「美濃岩村城」と「備中松山城」そしてこの「高取城」を日本三大山城に数えられている。 高取城の景観を「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」とうたわれた壮大で美しい城だったのだろう。 本丸で昼食にしたが、春とはいえ気温が、8℃程度で寒く早々に切り上げて下山した。城址の二ノ丸から本丸にかけての門跡や櫓跡などもう少しよく見たかったが、また次の機会にしよう。壷坂口中門跡より下山した。 |
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高取城址 宇陀門跡 |
高取城址 大手門跡 |
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高取城址 大手門跡 |
高取城址 大手門跡 |
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高取城址から望む吉野山 |
高取城址 三等三角点 |
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高取城址から望む吉野の山々 |
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高取城址 門跡 |
高取城址 天守台と本丸高石垣にて |
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高取城址 壷坂口中門跡 |
高取山より下山 |
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壷坂口中門跡からの下りはかなりの急勾配だ。下りきると車道に出るがまた山道に入り下る。やがて下りが急になると、五百羅漢遊歩道で急坂の所々に五百羅漢がまつられている。かなり風化しているのももある。奥の院三尊、冥救地蔵、五社大神、十三体、三社尊、護法大黒、両所尊、如来、三尊弥陀、阿羅漢そして五百羅漢等々と続いていた。これらの石仏を香高山(こうこうさん)石仏ともいうそうだ。五百羅漢とは、釈迦の没後その教えを広めていこうとした阿羅漢達のことだそうだ。 さらに下って壷坂寺を半周して土佐街道に戻った。土佐街道札の辻少し手前で、お里沢市のお墓にお参りした。土佐街道を戻り壺阪山駅で解散した。 今回少し端折った高取城址の二ノ丸から本丸そして天守について機会があればもう少しゆっくり鑑賞し、往時をしのんでみたい。なにはともあれリーダーさん大変お疲れ様でした。 |
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高取山より下山 |
五百羅漢 |
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高取山より下山 |
壷坂寺 |
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壷坂寺 大観音立像 |
なのはながいっぱい |
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コース |